影響を受けたもの

同じ時代のロマン派を代表する芸術家、E.T.A.ホフマンはベートーヴェンの芸術を褒め称えて、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたそうです。

しかし、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視していると言える、感傷性と感情表現に代表される美学からは距離を置きました。

ベートーヴェンが注目したものは、文学ではゲーテやシラー、またウィリアム・シェイクスピアらのものでした。

本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから影響を受けたそうです。

また、哲学者カントの思想に影響され、カントの講義に出席することを企画したりしていました。

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(哲学者イマヌエル・カント)

ベートーヴェンはカントの美学を体現したとも言われています。

カトリックです

ベートーヴェンは、カトリック信者だったのです!
が、敬虔なキリスト教徒とはいえなかったのです。
まあ、宗教に縛られるのも良くないですからね^^

そして、自分の曲の『ミサ・ソレムニス』にさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言したそうで。
これはこれで反感を買いそうですが・・・。度胸があると言えばありますが。

他にもホメロスやプラトンなどの古代ギリシア思想に共感したそうです。
バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学にも興味を持ったんだそうです。

色々とごちゃ混ぜになりそうですが、そのおかげで色々な思想を持つ事が出来たのではないでしょうか。

古典派的な作風

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な組み合わせと劇的な展開による古典的音楽形式を築くという面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な特徴を保った。

しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。

また、この古典的形式における劇的な展開と組み合わせという側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークやチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルク、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ラッヘンマンにまで影響を与えている。
沢山の方に影響があったんですね。

ワーグナーも

ワーグナーは、ベートーヴェンの『交響曲第9番』における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽を先頭に立って勢いよく行動したり主張したりして、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。

また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を大きくさせ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を分解し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を広めた。

触発される事によって生まれる音楽も多々あります。
その元を作れるって凄いですね。

影響力絶大!

ベートーヴェンの後の音楽家への影響は、物凄く大きいです。
ベートーヴェン以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けて育っているのです!

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲された物が殆どでした。

ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の先行となったんです。
音楽家=芸術家であると公言したベートーヴェンの態度表明は、音楽の歴史への重要な分岐点となるほど。
それぐらいの事を彼は、したんですよー。

後期についての作風

1818年の二度目の危機の時にはスランプに陥っていたのですが・・・ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究。

対位法は中期においても部分的には使われたのですが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えました。変奏曲やフーガは、ここに究められたのです。

これによって『交響曲第9番』、『荘厳ミサ曲』や晩年の弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、『ディアベリ変奏曲』などの音楽の後期の代表作が作られたんですよ~。
とても重要な研究だったんです!

初期から中期 の作風は?

初期
作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を作っていたそうです。この作風は、ハイドン、モーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もあります。

中期
1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機です・・・!
ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により無事に脱出しました。
つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、徹底して形式的・法則的なものを追求したんですね。
この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功ー。
1つ山を乗り越えましたね。(^^)

作風

ベートーヴェンの音楽は、古典派からロマン派への橋渡しを行ったと古くから言われている。
それでもベートーヴェン自身はウィーン古典派に属する最後の巨匠と見るのが普通である。

それは1802年と1818年頃の二度の危機に、当時E.T.A.ホフマンなど台頭しつつあったロマン派には興味を示さず、むしろハイドンとモーツァルトが完成したソナタ形式などの音楽形式や調性、そしてバッハの遺した対位法に集中し、それを活用する道を選んだからである。

40代になると・・・

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(作家ロマン・ロランによる命名)と呼ばれる時期となる。

40代に入ると、体調の悪化、恋愛事件・甥カールをめぐる養育権争い等もあり一時作曲が停滞したが、それらを経て作られた『交響曲第9番』や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は未曾有の境地の高さを示した。

20代のころ・・・

20歳代後半ごろより持病の難聴が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者となる。

音楽家として聴覚を失うという絶望感から1802年には自殺も考えたが、『ハイリゲンシュタットの遺書』と呼ばれる文書を書くことによって、強い精神力をもって自らの苦悩と向き合い、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになる。